吉本せいと山口組の関係がヤバい!?死因なども調査してみた。 

   

吉本せいと山口組のつながりがヤバい?

こんにちは。

皆さんは吉本興業の創始者、「吉本せい」さんを知っているでしょうか。

今ではお笑いといったら必ず「吉本」の名前が上がるほどに大きくなった吉本興業。

 

その礎を築き上げた吉本せいは、女性興行師として名を馳せていました。

「お笑い」をはじめて「ビジネス」にしたのも彼女であるとか。

彼女がいなかったら、今の芸能界も変わっていたんでしょうね…

 

しかし、吉本せいは山口組とのつながりも噂されています。

一体どういうことなのか、彼女の生涯や死因についても併せて考察していきたいと思います。


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吉本せいと山口組の関係は?

まずは、吉本と山口組が同じ時期の関西で興ったということは歴史的な事実です。

吉本興業が明治45年に始まったのに対して、山口組は明治40年ごろ神戸に興りました。

 

山口組はもともと神戸港で働く人々が、初代組長山口春吉を中心にまとまって始まりました。

その後、瞬く間に山口春吉は神戸港の顔役にまでのぼり詰めます。

すると、多くの労働者の面倒を見ないといけなくなり、彼らをねぎらうために寄席も必要となりました。

(寄席というのは「お笑い」が見れる場所のことだと思ってください。)

 

時期を同じくして、大阪で勢力を伸ばしていた吉本は多くの漫才師を集め、寄席を買収、規模を拡大していました。

わずか10年で大阪の「お笑い」をほとんど支配していたとのことです。

やはり、吉本せいは「やり手」だったようですね。

 

さて、山口組が寄席を依頼するのはもちろん、同じ関西圏で勢力を伸ばしていた吉本。

こうして山口組と吉本が接近していったと言われています。


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昭和期にさらに接近。

昭和期には、吉本興行は東京に進出を図ります。

当時、浅草で人気を博していた広沢虎造を吉本の専属にしようと考えたのです。

そのために吉本興業は山口組2代目組長の山口登に相談し、結果、広沢は吉本の専属になりました。

(このことは「ヤクザを使って脅しをかけた」とも言われていますね…)

 

その後、無断で他の組の映画に出演した広沢に腹を立てた吉本側が山口組に話を付けるように言った…ということもあります。

このように、吉本興業と山口組は密接な関係を持っていたことが分かりますね。

 

現代でも吉本興業と山口組の関係が噂されますが、明治期から続く、非常に根深い関係だったのです。

 

吉本せいの死因は?

山口組とも関係を築き、「お笑い」をビジネスとして支配した吉本せいはものすごい人物ですね。

通天閣を買収したのも彼女だというのですから、相当儲かっていたのでしょう。

一体彼女はどのように亡くなったのでしょうか。

 

調べてみると、最後は60歳の時に肺結核で亡くなっていました。

このころの結核は「不治の病」と呼ばれ、有効な治療法がなかったのではと思います。

いくらお金を持っていても、病は治せなかったようですね…

 

夫の吉兵衛は早くに無くし、息子たちも夭折してしまい、そういった意味では恵まれていなかったようです。

 

まとめ

現代の吉本は彼女がいたからあるのは間違いありませんが、いろいろ裏で汚いことにも手を染めてきたようです。

正直、ビジネスの世界ではそれが普通ですし、現代でもコネがものを言いますよね。

 

女今太閤とも呼ばれた吉本せいは、政治力も高かったと思います。

しかし、現代にもその悪い影響が残っているのでしょうか。

実は、吉本興業と山口組はまだつながっているのかもしれません…

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